沖縄県・某町史編さん事務局で働いています(前半)
airiです。私は沖縄県のある町の町史編纂事務局で働いています。今回は、その仕事をしながら考えさせられることを共有させてもらおうと思います。
「人は最初、どこから腐ると思う?…ハハッ(笑い)。」
これは聞き取りをさせていただいた、あるおばあちゃんが放った一言だ。
沖縄戦末期の、ひたすらに破壊された本島南部での話を聞いていた。生まれ育った村には米軍の戦車が来ていた。米兵がボンネットに座ってたばこをふかしているのをお墓の中から見た。足を負傷して逃げられず親戚家族に置いて行かれた。年老いた祖父を別のお墓に残したまま、助けに行けなかった。戦場から収容所へ移されて、南部から北部へ転送された。食料は不足し蚊を媒介とする感染症で次々と村の人たちは死んでいった。これらは体験談のほんの一部だ。3回ほど話を伺ったが、まだまだ言っておきたいことがあるらしい。
生活の場が地獄と化した72年前。狂気ともとれる笑みを浮かべながら当時を振り返る人たちを、私は何度か見たことがある。この姿を「優しいおじい、おばあ」と言い切ることは(これまでしてきたかもしれないが)、もう出来ない。第二次世界大戦が終結した1945年、当時20歳だった人は2017年の今年92歳を迎える。もういい加減忘れさせてくれ、と本当は言いたいかもしれない。言葉にしないまでも、聞き取り調査の依頼にいくとそのような空気が流れる。
――何のために?何で今さら聞くの?
「えー、旧2町村が合併してから町史編さん事業ということで戦争編を発刊することになりました。戦争体験の聞き取り記録がとても少ないので、当時の集落や村の様子を聞かせていただきたくて。皆さんがまだお元気なうちに、と。それに一人ひとりの体験は全く違うはずなので、なるべく多くの方から聞き取りを行いたいと考えていまして…。どうでしょうか。
――・・・そうねぇ?私はあんまり覚えてないからねぇ・・・。こんなの・・・。しゃべりも全然上手じゃないさ~。
やりとりが噛み合っているのか、ちゃんと伝わっているのか、一応確認しながら話しているつもりでも、また最初から繰り返すことも多い。もちろん同意を得られた方から聞き取りを行うことになる。場合によっては座談会の形をとって当時を思い出し合いながら語ってもらい、後日改めて伺うことになる。
話してみると、バラバラな記憶が整理されながら沸々と別のことを思い出す。記録する側は内容確認のために聞き返し、語る側は体験を客観的に捉えなおしていく。たまに『話してみて良かった。またいつでもいらしてください。』と言われると、私の方が心救われる気持ちになる。
”しゃべりが上手じゃない” という返答を、皆さんはどう思われただろうか。
戦争体験はよくテレビや新聞、学校の平和講演など「人前で話すこと」の印象が強い。人前で自分の人生を話すなんて…と、その謙虚さから断られる場合は多い。個人情報が出てしまうことを心配する人も多い(※書籍に掲載する場合には承諾書を用意する)。
しかし忘れてはいけないことがある。私の父親世代(50代半ば)でも経験したという「方言札」のことだ。当時、生活の言語は”しまくとぅば”である。それは学校教育で否定され、標準語の使用を強制された。しかし生活のなかの単語や表現は、スムーズに日本語に置き換えられない場合がある。言い直そうと懸命になると想起の流れがせき止められてしまうかもしれない。これまでに沖縄戦の体験を、しまくとぅばで記録したものは数多くは無い。聞き取りを行っている私は沖縄生まれ・育ちだが、じつは方言がほぼ理解できない。体験者の話を聞く資格がないのではないか…と思うことも多い。(罪悪感と葛藤しているような、複雑な気持ちです。)
後半へ続く。