リトアニアの多様性(2)リトアニアの独立と第二次世界大戦前のユダヤ・Diversity of Lithuania(2)Independence of Lithuania and Jewish community in the pre-WW2
第二次世界大戦の時代、リトアニアのエスニック・マイノリティの中でも人、一番辛く、一番当時の影響を受けたのがユダヤ人のコミュニティであったことに間違いないです。
一方、独立したリトアニア時代(1918-1940年)にはユダヤ人の文化が富みました。首都のヴィリニュスはポーランドに侵略され、1919年から1939年まで、ポーランドの領土になったのですが、その間にもヴィリニュスの裕福なユダヤ人の遺産は富み続けました。
1926年から、リトアニアは一党制になったため、政治的にはユダヤ人が積極的に中央政府に参加できなくなったのですが、他の欧州の国と違い、文化的にも経済的にも自由で、社会から切り離れないまま、リトアニアの社会で共生できていました。
リトアニアのユダヤ人が大抵使っていた言語はロシア語とイディッシュ語とリトアニア語の三言語でした。イディッシュ語の新聞も出版され、区によって、イディッシュ語で書いてあった店や通りのサインもあったようです。
14世紀前半以前の、リトアニアの領土に滞在するユダヤ人に関する歴史的史実に関する書類はなさそうに思えますが、1388年に「ユダヤ人に対する特権」が王ヴィータウタスによってサインされていたという記録があります。その宣言によりますと、ユダヤ人のコミュニティには宗教的で文化的な自治権が確保されていたということです。そのような相対的に信教の自由はリトアニア大公国時代もポーランド・リトアニア共和国時代にも合法的に確保されてきました。
1918年にリトアニアはロシア帝国から独立を発表し、国民国家 (nation state) になったのですが、暫くの間、ユダヤ人は積極的に社会的な活動を行いました。リトアニアの独立のために戦ったときに、少なくとも500人のユダヤ人がボランティアになったという事実もあります。