歴史的な場所で杉原千畝のプレートの披露
9月4日に、カウナスで1940年に「命のビザ」という通過ビザを発給し、6000人のユダヤ人を救ってれた杉原千畝のためのプレートが披露されました。
危ないときに
1940年の8月28日です。リトアニアのソビエト占領の4ヶ月目。すでにソビエト社会主義共和国となったリトアニアでかつての共和国の証拠が隠滅され、領事館や大使館が閉鎖されるときです。その結果、1939年からリトアニアで築かれた日本領事館も閉まり、杉原領事は9月4日にリトアニアから移動させることになりました。
しかし、リトアニアを離れる前には・・・
1939年9月1日にナチドイツはポーランドを占領し、第二次世界大戦を始めました。ナチによるユダヤ人の大量虐殺の計画はポーランド系のユダヤ人には目前にせまったとされています。この際、死を逃れようとしていたユダヤ人の中に、難民としてリトアニアに逃げて来る人が多かったそうです。しかし、リトアニアの運命も不安定なのでした。当年の10月10日に赤軍はリトアニアに入り、独立のリトアニアの崩壊は時間の問題でしかなかったです。それだけではなく、1941年6月にリトアニアもナチドイツの犠牲になったという事実があります。
1940年6月14日にリトアニアがソ連に占領されたときは、大使館は一斉に閉まり始めました。しかし、そんな不安定のときに、ユダヤ人の難民の絶望の声が聞こえた外交官の一人が、地畝杉原領事でした。当時の大日本帝国はナチドイツが入っている枢軸国という軍事同盟の加盟国であるにも関わらず、ユダヤ人に対する脅威を理解する杉原は通過ビザを発給し、ユダヤ人を救うことにしました。日本領事館が閉まっても、ホテルに滞在する杉原千畝は「命のビザ」を発給し続けました。実は、9月4日にカウナス駅でもそのビザを発給し続けたという事実もあります。杉原千畝は6000人頃の命を救ったとされています。
リトアニアで行われた記念行事
これを記念して、75年後、その歴史的に重要な場所で、杉原千畝のプレートが披露されました。9月4日の朝に、メトロポリスホテルの前にも、カウナス駅にも、プレートのお披露目の儀式があり、地畝の「命のビザ」のおかげでホロコーストを生きて生けたユダヤ人(Nina Admoni とMarcel Weyland)、日本の大使と大使館の代表、外務副大臣、議会員などが参加されました。「AURA」という国際的な現代ダンスの集団は「Turned」という演芸もやってくれました。駅の中にも展示が行われました。杉原千畝のような英雄の遺産をいつも覚えて欲しいです。
リンク
*75周年記念行事に関する記事
*NHKによるテレビ報告
*おだキリエによる現代ダンスの演芸