長崎と多文化共生(3)長崎中華街レポート Nagasaki and Multicultural co-existence(3) China town in Nagasaki
かのように、中国文明がいきいきと生きているように見える長崎であるが、実際の華僑の人々の生活はどのようであったのか。
ちゃんぽんの考案者・陳平順氏の曾孫にあたり、長崎の有名な中華料理店「四海楼」の代表取締役である陳優継氏の著作(2009)、「ちゃんぽんと長崎華僑」の中で、長崎華僑の歴史について以下のように語る。
人口の6分の1が中華系という時代もあった長崎だが、幕末の1858年の安政の開港により横浜・函館が開港されると、長崎は日本唯一の貿易港としての特権を失った。貿易の中心は東に流れて行き、長崎華僑の数は減って行く。唐人屋敷は廃墟となり、火事のために焼けてしまう。長崎の中国人は唐人屋敷前の海を埋め立てて作った造成地の「新地」に移り住んだ。(陳:14)
(横浜港の、開港したころの絵。外国船が賑わい始めた)
そして、長崎に何世代によって住んでるが外国籍である彼らは、国という枠組みの中で様々な試練を経験する。
1894年の日清戦争の際は、日本政府から在留清国人引き揚げ令が発令され、600人ほどいた華僑は本国へ帰って行き、長崎に残ったのは268人であった。日清戦争が集結した翌年から徐々に長崎へ戻ってきて華僑人口は戻ったが、華僑にとって辛い時代が始まる。それまで江戸時代から続く長崎市民と華僑の絆は親戚的付き合いだったのが、華僑を蔑称で呼ぶ日本人が出てくるなど、日本人の中国人観が変わって行ったという。(陳:30)
1931年の満州事変以降は、中国政府は長崎華僑を中華学校へ転入するよう命令するが、日本政府は、日本の検定教科書を使うよう言い渡しをし、華僑の生徒は板挟みとなる。
1937年の盧溝橋事件以降は、中華民国政府から「在日華僑の中国本土総引き上げ訓令」が発令された。当時の長崎華僑の心情は、「もし総引き揚げの訓令がきたとしても、多年にわたり堂々と築きあげた商権や財産を捨ててまで帰国することはしのびがたい。たとえ帰国しても、その後のことを考えると、むしろ長崎にとどまった方がよい」というもので、中国国民党長崎市部の謝執行委員長の言葉により代弁されたそうだ。しかし、この年は320人が門戸経路で中国に帰国している。 (陳: 86)
第二次世界大戦が始まると、長崎市内は空襲が頻繁におこり、中華料理店も廃業させられたという。そして、1945年の8月9日には原爆が投下され、新地の中華街から逃げ、唐人屋敷の建物に避難するものもいた。長崎華僑で被爆するものも少なくなかった。
しかし、その後、長崎の華僑は復興していった。筆者の陳氏の家系が営む四海楼は、戦時中は廃業に追いやられたが、戦後に二つの店を出し、長崎県北部の街、佐世保市にも支店を出した。華僑の平順氏が発案した料理「ちゃんぽん」は、戦後復興の中で、人々に希望をあたえたのだ。(陳: 94)
現在は、日本人との結婚が進んだので、現在の詳しい長崎華僑の人口は把握されていない。長崎県の人口約44万人に対し、留学生を含めた2010年の中国国籍の住民の数は4037人である(入国管理局ウェブサイト)。
ちゃんぽん、龍踊りなど様々な中華系の祝祭がとけ込んでいる長崎。異国情緒あふれる都市と観光パンフレットなど紹介され、2014年に長崎大学には「多文化社会学部」という「多文化」を初めて冠する学部がに誕生した。だが、長崎と外国は、華僑との歴史が示すように円満な時代ばかりだったわけではない。非常に生き辛い時もあった。この歴史を顧みて、すぐ近くにずっと一緒に住んできた華僑の人々について、もう一度再考することとなった。
<参考文献>
陳優継.「ちゃんぽんと長崎華僑〜美味しい日中文化交流史〜」.長崎新聞新書021, 2009.
彭 雪. 「長崎ランタンフェスティバルと古今中国−中国人観光客誘致への示唆−」. 長崎便り, 2012. (http://shiten.agi.or.jp/201206/201206_80_85.pdf.)