長崎と多文化共生(1)長崎中華街レポート Nagasaki and Multicultural co-existence(1) China town in Nagasaki
長崎について、皆様はどのくらいご存知だろうか。九州にあるとは知っている方はいても、本当に九州の西の端に位置していて、外国の方が近い街だと知っている方はどのくらいいらっしゃるのだろう。地理的には日本の首都である東京よりも、中国の都市である上海や韓国の釜山の方が圧倒的に近い。鎖国時代は、長崎の出島は日本で唯一の国際港だった。何世紀にもわたって中国や西洋の文化、キリスト教が輸入され、争い、共存してきた土地でもある。そして、ここは私Markの生まれ育ったまちでもある。
さて、長崎といえば、オランダを思い浮かべる方も多いようだが、実は一番関係が深い国は、お隣の国中国だ。長崎の伝統的な祭り、ランタンフェスティバルは中国の旧正月を祝うお祭りである。長崎くんちという大規模な神社のお祭りには、中国の出し物である龍踊りが目玉として出る。そして、長崎には日本で最古の中華街があるのだ。そんな長崎の多文化共生について、今回は長崎の中華街にスポットをあて、レポートしたい。
現在の中華街は長崎市の新地という場所にある。着くとすぐに、中国式の赤い門が見え、繁体字の中国語が踊っている。しかし、もともとの中華街は外国人居留地地区である山手に位置する唐人屋敷にあり、その前は中国系住民は長崎市内中に、長崎人と区別なく住んでいた。この事実は、長崎と中国の歴史に深く関わっている。
長崎と中国大陸の歴史は古く、16世紀に明朝が海禁令を解き出向貿易が始まった時に、中国の南方の地域(福建)周辺の貿易商が密貿易で(身分を隠す為に「唐人」と呼ばれた)長崎に渡ってきたと言われている。1635年から始まった鎖国時代、明朝とポルトガルのみが長崎に限定して受け入れられた時は、長崎の人口の約6万人のうち、約1万人が「唐人」だったと言われる。長崎の人口の6分の1が中国系の住民であった時代があったのだ。この時代、日本人と結婚する唐人はかなりの数にのぼり、中国と長崎の文化が融合する親密な関係が築かれた、と言われる。唐人と長崎人は区別なく、長崎市に住んでいたのだ。
しかし、1689年に、長崎奉行所は密貿易の防止、キリスト教の取り締まり、風紀上の問題から唐人の市中散宿を禁止し、中国人専用の居住地区である唐人屋敷が山手に造成された。これが現在の「唐人屋敷跡」の原型となった地区である。
そこで、唐人屋敷跡に足を延ばしてみた。実際には、「屋敷」といっても、一万人の中国系住民が住んでいたので、1つの地区のようになっていた。
近づくにしたがって、一気に寂れた雰囲気になる。長崎市街地からは外れた地域になってきているのがわかる。近くの八百屋さんから店員さんが、ばりばりの長崎弁で会話をしているのが聞こえる。つい最近まで県外で暮らしていた私には、懐かしく耳に響くなまりだ。彼らの祖先をたどると、福建にたどり着くのだろうか。わたしの祖先もたどると、中国にたどりつくのかもしれない。
そして、何と言っても衝撃的であったのは、唐人屋敷内に中国式の銭湯のようなものが現存していたことであった。これは、調べてもいつまで使用されていたのかわからず、もしや観光客用に再現されたものなのかもしれない。しかし、ふとした瞬間に「昔、中国の方が住んでいた」と思われている街に生活感が見えると驚きが隠せない。大昔、福建省から来た人々とその子孫はここで汗を流し、情報交換をし、くつろいだ気持ちで福建語で会話をしていたのだろうか?想像力がかきたてられる場所であった。
その(2)に続く。
参考文献
Oi, Mariko. “Nagasaki: One Square Mile of Japan.” BBC News, World Radio and TV. BBC News, Nagasaki, 10 Mar. 2012. Web. 22 May 2015(http://www.bbc.com/news/world-radio-and-tv-17285248).
陳優継.「ちゃんぽんと長崎華僑〜美味しい日中文化交流史〜」.長崎新聞新書021, 2009.