長崎と多文化共生(2)長崎中華街レポート Nagasaki and Multicultural co-existence(2) China town in Nagasaki
(前回の「唐人屋敷跡」に続いているので、以下、この部分を再録をする。「1689年に、長崎奉行所は密貿易の防止、キリスト教の取り締まり、風紀上の問題から唐人の市中散宿を禁止し、中国人専用の居住地区である唐人屋敷が山手に造成された。これが現在の「唐人屋敷跡」の原型となった地区である。」)
そこで、唐人屋敷跡に足を延ばしてみた。実際には、「屋敷」といっても、一万人の中国系住民が住んでいたので、1つの地区のようになっていた。
唐人屋敷の中には、お寺もある。
土神堂(左)、そして観音堂(右)。どちらも17世紀、18世紀に唐人によって建てられたが、一度後年の火事により焼けてしまったので、再建されたものだ。観音堂の奥にはつい最近おかれたようなお菓子のお供えものがあり、このお寺が生きていることを感じさせる。
てくてくと街の方へ歩き、新地の中華街に戻ると、華僑会館というものを発見した。現在も長崎華僑の方々の会合に使われるようである。昨年は、中国長崎総領事が訪れ、会見されたこともあるそうだ。
新地を歩いていると、まるで中国の街にいるような気持ちになる。しかし、ふと見上げると建物の二階には「浜の町コンタクト」という字が目に入り、ああ長崎にいるのだということが思い出される。
中華街を出るとすぐ目に飛び込んでくる町中の駐車場には、壁面一杯に龍の絵が書いてある。長崎の中華街は決して大きくはないが、今でも中国文化が生きている。では、実際の長崎華僑の人々は、どのように生きてきたのだろうか。