2014年2月:フィールドノーツ(2)久松ことばと漁、そしておじい Fieldnotes 2 Miyako Island
この左の写真の奥に見えるのが伊良部島である。来年には、伊良部島と宮古島が結ばれる橋が開通される。そのため、橋がかかる後を見越して、宮古島中心地から久松に繋がるあたりは、道路沿いに新たなマンション、コンクリートの建物が著しく増えている。
道を離れて、浜を歩くと、今日も釣りをする人たちが見える。この写真に写っている二人のおじいたちは久松ではなく、街の中心地に住んでいるが、時間ができると誘い合って魚を取りに来ると言う。「何が釣れますか」と聞くと、「さより、吉永さより」とおやじギャグを飛ばし、はははと大声で笑う。伊良部島は見えるものの、日がな一日海の前に座り、穏やかな風と波の音を聞きながら魚釣り。そんな宮古島の生活もある。
一方で、ハーリー(海神祭・海人=イン(ム)シャーのお祭り)の時に見た、細長い、年季の入ったボートの傍にいたおじいに話しかけた。
話をしていると、私の父と同じ年齢(83歳)のおじい、今は時々、自分の食べる分だけの魚を捕るという。今月は、サトウキビの収穫で忙しいので、サバニ(細長い木の船)の手入れもできない。昔は、これでこぎ出して、網でたくさんの魚が取れた。魚の網を引っ張ると重くて重くて、と漁の話をしてくれる。私の方から、久松ことばを話しますかと尋ねると、久松ことばを話すという。私はどきどきしながら、子どもさん、お孫さんとは久松ことばを話しますかと尋ねたら、おじいは一瞬顔を曇らせて、息をついだ。
国民学校のときは方言札があって、子どもたちは自分の方言札を他の子に渡さなくちゃというので、わざと足を踏んで「あがっ(痛い)」と言わせて、「ほら、方言を話した」と方言札を渡した。おじいは私の足を踏んでこう言ったと実演をしてくれた。「だから、子どもや孫は那覇に住んでいるし、久松ことばでは話さないよ」という。
踏まれた足は確かに痛かった。でも、それ以上に、友達の足をわざと踏んだおじいの方が痛かったのではないだろうか。久松ことば、宮古島・琉球のことばを話してはいけないと、国に統制された歴史。おじいの中にもいまだその痛みと怒りが残っている。
私の矢継ぎ早の質問に、一生懸命に応えてくれるおじい。でもときどきおじいの話が聞き取れない私。おじいの「標準語(共通語)」はわかるが、話し方がときどき、声がくぐもるように聞こえる。これは久松ことばを話す人の特徴であるとも、久松の隣の地区の人から聞いていた。
おじいの顔は日焼けをして光り輝いている。木の年輪と比べたら失礼とは思いながら、その人の年輪を表すようなおじいの顔をみて、私は写真を撮らせてほしいとお願いをした。「いいさ」。
「明日もいらっしゃい」と言ってくれたおじい。明日は私は東京に帰る日だったが何とか戻ってこなくてはと思った。