2014年2月:フィールドノーツ(1)宮古島の久松ことば Fieldnotes 1 Miyako Island
宮古島は2005年10月1日に旧5市町村が合併して、宮古島市となり、現在は、「宮古島」「池間島」「大神島」「伊良部島」「下地島」「来間島」の6つの島、そして「多良間島」「水納島」が宮古郡多良間村に属している。
私は「多文化共生を再考する」なかで、地域の言語や文化を次世代にどのように伝えることが可能なのかという点も追及したいと考えるようになった。そう思うようになったのは、共同研究者の善元幸夫先生が2012年に私を宮古島の久松小学校に連れて行ってくれたからである。そこで私は宮古島と久松の子どもたちに出会った。宮古島の一集落、久松のことばを学校教育の中でどのような位置づけで「教育」をすることができるのか、また子どもたちはそれをどのように受け止めているのだろうかという、言語や文化の継承に関わる課題が私の中に宿ったわけである。
今回の調査は、小学校・中学校の校長先生方、そして子どもたちへのインタビューが主な目的であった。先生方は私を温かく迎え入れてくれ、予想以上の調査ができたので、これは後に研究という形で先生方や現場の先生がた、また中学生の「子どもたち」へお返しできるように取り組むつもりである。(ワイドー・がんばります。)
調査の進行と同時に、短期間とはいえ、宮古島訪問3度目にしてようやく「久松ことば」の久松集落で生活をすることができた。午前中は、浜辺に通い、自転車と徒歩で久松の集落を地図に沿って回り、なぜ「久松」なのかという地名の由来、「久松ことば」が話されている場面をこの足で探した。その過程で、五感をフルに使ったせいか、立ち止まって海の色を眺め、磯の香りを思い切り吸い込み、また集落の人のおおらかさと温かさに触れるたびに、心身共に健康になったと思う。宮古島・久松からはたくさんの贈り物をもらった。(タンディガータンディ・ありがとうございます。)
久松は海に面しているので、どこに行っても迷うことはない。迷ったら海がどちら側になるかを見れば、すぐに自分の位置がわかる。いまだに、久松のことばと文化は確かに存在はしている。しかし、ユネスコが2009年に消滅危機言語として挙げた宮古語の、その中の一つであると考えられる久松ことばは、話し手が限定されているのも現実であった。久松ことばが活発に話されていた漁港は残っているが、漁だけを生業としている人はすでにいない。
[註:2014年7月に久松を再訪問したときに、漁だけを生業としている漁師さんは40代から70代くらいにかけて11名の方がいることがわかった。とはいえ、時代と共に、以前のようなサバニに乗って漁をするのではない。私が「いない」と言い切ったのは、当時の学校の先生方のことばをそのまま書かせてもらったのだが、今回、漁師さんと直に話をし、「すぬず(もずく)」漁などをしていると伺った。久松で漁を生業としている漁師さんたちがいることをここに訂正しておきたい。]