多文化に生きるスキル Skills to live multiculturally
全然見ないでいるうちに、ソチオリンピックは終わってしまったようだ。さて、1964年の東京オリンピック後、70~80年代の大久保はいったいどんな町になっていったのだろう。
かねてから引いている稲葉佳子さんの本を読むに、やはりこの時代を語るうえで最も大きいのは、ニューカマーの人びとの存在だろう。
とりわけ1980年代、歌舞伎町でホステスとして働くために、主として台湾やフィリピンから女性たちが大久保にやってきて住まうようになった。
また、民主化前の韓国からも徐々にひとが移住してきていたようで、韓国の教会や食堂、美容院、服屋なども80年代中ごろから増えてきたのだという。
一方、以前も書いたように戦前から多文化色の強い地域だった大久保には国際学友会や専門学校があることから、留学生もさかんにこの地域を訪れていた。
加えて、日本に来て間もない彼女・彼らに学習の機会を提供するための日本語学校が複数新たに開設されたこともあり、学校とアパートとが混在する市街地として大久保は形成されていった。
ただ、どうやらこの過程は平坦な道のりではなかった。
違う文化圏からやってくれば、生活様式が違うことは当然ある。ニューカマーのひとびとを受け入れたことがない不動産会社や家主や地域の住民は、即座に、あるいは100%そうした違いを受け入れられるわけではなかった。
もとから住んでいたひとと、新しくやってきたひと、生活騒音やごみ出しトラブル、アパートの契約違反など、問題が起きることはままあった。
しかし稲葉さんによれば、不動産会社も家主も旧住民も、そしてニューカマーの人びとも、お互いに折衝して生活していくすべを作ってきたのだそうだ。
その結果大久保は、エスニック・タウン、多文化のまちとして、90年代から現在にいたる発展を遂げることができたのだ。
ぼくはこれは、本当にすごいことだと思う。
街を歩けば監視カメラが立ち並ぶいまの社会は、異質なものやよく分からないものを即座に排除する風潮が高まっている。
けれど、そうすることで排除されるのは、結局いったい誰なのだろう。
そうじゃなくて、交渉すること、話し合うこと。
これはきっと、「多文化共生」を目指すうえでは必須のスキルだし、それは誰よりもまず、ホスト、歓待する側、すでに多くの情報や資源を持っている人こそが、始められたらいい。