歌舞伎町の誕生 The birth of Kabuki-cho, and then
もう2014年も2月に突入したけれど、昨年2013年は、1923年の関東大震災から90年だった。
関東大震災といえば、大地震・そして火災によって多くの被災者を出すとともに、根も葉もない偏見やうわさが流布し、住民の自警団そして軍部や警察の手によって、在日朝鮮人の虐殺が行われた事件でもある。
とりわけ、墨田区あたりでは大規模な虐殺が起きたと聞くけれど、以前から度々引いている稲葉佳子さんによれば、この震災では大久保は大きな被害を受けなかったようだ。
それよりも、大久保の地域が甚大な被害を受けたのは、第二次世界大戦だった。郊外住宅地として発展してきた大久保の街は一度焼失。戦後は小さな住宅や木造アパート、旅館やホテルなどが立て込む市街地となっていった。
そして、こうした戦後の大久保の発展にもっとも大きな影響を与えたのが、歌舞伎町の建設だ。歌舞伎町は、娯楽施設や映画館を備えた大アミューズメントパーク構想のもと戦後立ち上げられた新しい街だ。
だが、当初は文字通り歌舞伎劇場の建設などが考えられていたようだけど、計画は紆余曲折。いまの職安通り(旧・鬼王様通り)を境に、歌舞伎町は、進駐軍兵士と女性たちとが連れ立って歩くホテル街に変貌していく。
一方大久保はというと、地方から上京して歌舞伎町で働くホステスやボーイたちのベッドタウンとして機能するようになっていった。
つまり、かつては境界なく繋がっていた新宿~大久保の景色は、職安通りによって分かたれたということになる。
こうしてみると、歌舞伎町と大久保、ふたつの街のこの役割分担は、戦後から現在に至るまで保たれているように感じる。
以前、歌舞伎町のキャバクラで働く女性とお話しする機会があったのだけれど、そのひとはやっぱり、大久保に住んでいた。歌舞伎町はうるさいし、知り合いに会うから、だそうだ。
そんなふうに、多くのひとに休息の場所を与えてきた歌舞伎町~大久保も、昨晩(2月8日)は雪化粧。歌舞伎町のネオンは、こんな夜も煌々と輝いている。