百人組の真相 The truth of ‘Hyakunin-gumi’ (one-hundred matchlock infantry units in the Edo era)
年を越している間に、前回の記事からずいぶん間が空いてしまった。
ぼくはこの間、ちょっとした調べものをしていた。
それは、大久保の街の歴史についてだ。
前も書いたように、ぼくの住んでいるあたりは百人組という集団の由来の地らしい。
どうも鉄砲を持っていた集団のようだけど、新撰組みたいなものなのか、あるいはジョン・デリンジャーみたいなギャング?それともチェ・ゲバラみたいな活動家?
ということで、とりあえずこの百人組から調べることにしたのだった……!
そこで、参考にしたのが『移民国家日本」と多文化共生論――多文化都市・新宿の真相』(川村千鶴子編・2008年明石書店)。
一見堅そうな本だけど、読みやすくてとてもおすすめだ。とりわけ、1,2章には稲葉佳子さんという方による大久保の街についての論文が掲載されている。今回は、この論文の内容に負ってみよう。
稲葉さんによると、江戸時代の大久保は武蔵野国豊島郡というところにあり、江戸市内から農村部に入る入り口あたりに位置していたそうだ。
大久保の街が今のようになったのも江戸時代のこと。徳川家康が1602年に御鉄砲百人組と呼ばれた伊賀の下級武士の集団をこのあたりに敷地割りして住まわせたのが、現在の道路区画のはじまりだ。
この百人組は、人数が多いこともあってか、けっこうな敷地を持っていたよう。ぼくの家があるあたりも、「御鉄砲玉薬同心屋敷」だったらしい。
つまり、百人組の存在こそが、大久保の街の一つの原型なのだ。なるほど、それでああやって碑が立ったりするのね、奥深い。
そんなわけで(?)このブログではしばらく、今回調べたことを糸口に大久保の街の発展と、今の街の様子を代わる代わる書いていきたいと思う。
奥が深いなら、もっと奥へ。皆さまと一緒に街を歩いていければ幸いです。今年も、どうぞよろしくお願いいたします。
ところで下の写真。大久保通りで撮ったのだけど、見えるかな、看板とお店の中身とが、ほら。こういうの、面白くて、好き。