東京ジャーミイ訪問 Visit to Tokyo Camii & Turkish Culture Center
前回、宗教に関心があると書いたけれど。
そういう関心って、どうやって育てていけばいいだろう、と考える。
ぼく自身はクリスチャンで、生まれた時からキリスト教の中で育ってきたけれど、
たとえば「キリスト教に関心があって、本を読んでて……」という人と授業やなんかの場で話すと、ちょっとげんなりすることもあったりする。
それは良くも悪くも、そこで語られるイメージが一面的で、「そんなことほとんどの人は信じてないよ」とか、逆に「そんなに良いものじゃないよ」と言いたくなるようなものだったりするからだ。
本に書いてあることなんてあてにならないし、宗教の中にある生活の明暗なんてわからないと思う。
でも一方で、ぼくだってキリスト教以外に対しては、そういうイメージで物を言ってしまいがちだと思う。
関心を育てる方法を、見つけ出さないといけない。
そう思って、先日、イスラム教のある宗教施設を訪問した。
代々木上原にある、東京ジャーミイ&トルコ文化センターだ。(http://www.tokyocamii.org/publicViews/home/lang:jp)
1938年に建てられた、日本に現存するモスクでは二番目に古いというこの施設。
以前、中東を旅したときにモスクを訪問したことはあるけれど、日本でモスクに行くのは、ぼくははじめての経験だ。
これは道路わきから。
これは礼拝所の前で。
壮麗な外観や内部の文様(中の写真は今回はないけれど、お近くの方はぜひ行ってみてほしい)に圧倒されつつ、この度の訪問では礼拝を見学させていただいた。
ちょっとぎゅうぎゅうなくらいに一列になって、礼を繰り返す姿はとても印象的なもの。
その後日本人スタッフの方による解説を聞くことができた。
なんでも、一列になることは、イスラム教における神の前の「平等」の理念を体現しており、
肌の色や言語や住んでいる地域や国籍に関わらず、この「平等」は絶対的なものなのだという。
だからこそ、抑圧や差別を受けてきた人々の中には、イスラム教になる人が多いのだ、と。
この「平等」の話を聞きながら、それはキリスト教にも近い部分があるなぁ、と考える。イエスは当時の社会で差別されていた人たちと、率先して食卓を囲んだのだった。
いわく、「後の者が先になる」のだと。
でも、スタッフの方も言っていたように、近い部分があるのは当然のことなのだ。なにせ、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教は歴史的にはきょうだいだ。むしろ、その間に厳密な境界線なんて引けると考える方が、間違っているのかもしれない。
先述した、固定的なイメージがこの境界線引きに一役買っているのだとしたら、そういうイメージを打破するために地道で豊富な経験を重ねることが、きっと「多文化共生を再考する」ことでもあるのだと思う。
ところで、東京ジャーミイのサイトを見ていたら、ある興味深い情報を手に入れた。東京ジャーミイ設立以前、新大久保にトルコからやってきた人々の学校と礼拝所があったのだという。
そういえば、いまの新大久保に働くムスリムの人びとは、どこで礼拝を守っているのだろうか。