我が家のシーミー(清明祭)を紹介
今回は、「シーミー」の様子を一般家庭の内側からお伝えしたいと思います!
(※一般的でない方法や考え方なども含まれているかもしれません・・・)
シーミー(清明祭)は中国伝来の文化です。沖縄では一年に一度の大切な家族行事となっています。
(参照)那覇市歴史博物館デジタルギャラリー「金城家の清明祭」
「シーミー」は二十四節気のひとつである“清明”節中に行います。
なるべく家族のスケジュールが合うように調整します。
また、私たちの親戚・家族(“門中”といいます)では、その一週間前に「カミウシーミー」といって分家していった各家庭から代表者が集まってお墓の掃除をします。必要な時にはお墓の修理をします。「カミウシーミー」の時には、門中の元祖だけではなくさらにその“上”のご先祖様に先に拝みを入れて、事前に感謝や祈りを伝えるようです。これは門中の代表だけが行っていることなので私は参加したことがありません。この「カミウシーミー」が行われる前ぐらいから大人たちがバタバタし始めていることを知らない子どもたちは、まさにピクニック気分で「シーミー」の日を迎えます。
以下、2016年の我が家のシーミーの報告です。
(1)4月末の土曜日、重箱の材料の買い出し
両親共働きで時間的に余裕が無いので、スーパーに売られているお惣菜はとても助かります。
買い物は、こんな感じになりました。
(2)当日の朝、準備
そして翌日の朝。
早い時間から台所で揚げものをする母。
居間では父が背中を丸くして、じーっとテレビを見ていました。
出来上がった重箱はこんな感じ。
揚げものや煮物が中心で味に飽きてしまうことがあるため、子どもに人気のあのチキンが、かまぼこや天ぷらと入れ替わっていることもよくあります。
重箱は遅めのお昼ごはんにもなるので、白餅の代わりにおにぎりが入っています。
母「重箱出来たよー」
父「よし!」
ようやく弟も起きてきて、全員そろったところで早速、出発です。
(3)門中墓へ
車で5分の場所にある「門中墓」。
ここの小高い丘にはたくさんの「門中墓」があります。
周辺の土地に昔から住んでいる方々のお墓が集まっている場所です。
(右端の写真はお墓を上から撮影)
※ウートートー(合掌しご先祖様を敬うこと)の様子を良い感じに撮影している友人から許可をもらって掲載しますね。
『・・・私たちは五男の○○の家族です。ご先祖様に守っていただいて去年一昨年も無事に過ごすことができました。ありがとうございました。今年一年も・・・』というような内容を(ウチナーグチで)つぶやいています。
(4)別の町の門中墓へ
ここから離れた町に、さらに“上”のご先祖様のお墓へと向かいます。「シーミー」の日はこの2カ所のお墓をお参りして、最後に海や公園へ行って重箱を食べるまでが定番の流れです。
2カ所目はこんな感じの場所にあります。
10数年ほど前に改修したこの真っ白なお墓は、駐車スペースやゆるやかな階段、ベンチなどが整いお年寄りに優しい造りとなりました。
(5)お供えするときのポイント
まず線香(平たいもの)をあげて、お酒をお墓の入口部分にかけます。それから重箱を広げます。重箱をお供えするときにあるポイントがあります。惣菜をひとつだけ取り出して上にのせるのです。これはご先祖様が手を付けやすい、食べやすいようにする心遣いだろうと私は思っています。おにぎりもラップを外します。一度取り出したものは2か所目へ行く前に予備のものと取り換えます。
線香と紙銭(ビンシー、あの世のお金、ウチカビ)を燃やして(ウチカビする、と言います)、ご先祖様への感謝と今年一年の祈りを伝えてから煙がおさまったら重箱やお酒などを片づけます。
(6)古いお墓跡
それから同じ山の反対側にある別の入り口から少し奥へと入っていきます。
山の斜面の少し窪んだような所にお墓跡があって、そこでも手を合わせてお供えをします。このお墓跡のことは父もよく知らないようです。
風が強くてもほんの数秒で着火できるガスバーナーが超便利とのこと。
でも紙銭を燃やし尽くすのはなんだか気が引けました。笑
ここは蚊がとても多いので、母と弟はそそくさと車へ戻ってしまいました。
線香と紙銭の火がなかなか消えずに父が煙草を吸い始めて、ふと何かを思い出したように、
「昔はもう一か所行くところがあったと思うんだけどな。」とつぶやきました。
車で30分ほど移動してきたこの場所は、ずっと昔にご先祖様たちが暮らしていた土地です。記録に残っているわけではないので家族行事としてお墓詣りに行くことはご先祖様の長い歴史を知る手段でもあります。私よりも後世の家族はどんな土地で暮らすのだろう、今の私と同じようにお墓に手を合わせながら移動の跡に想いを馳せてワクワクしているのだろうか・・・。私は、土地と結びついた家族の物語に想いを巡らせながら一人浮ついた感じになってしまいました。
(7)ウサンデーを食べる遅い昼
最後はお昼ごはんを食べに海へと向かいました。お供えしたものを下げるときには「ウサンデーサビラ」と言いますが、ウサンデーしたものを子孫である私たちもみんなで食べます。他にも遅いお昼を食べている家族がいました。