貸家の住人 Residents in rental housing
さて、そんなわけで大久保の歴史を調べています。
前回書いたのが、百人組のいた頃、江戸時代の話だった。ではその後、明治以降の近代化では、大久保はどのように変わっていったのだろう。
そこでまた参考にしたいのが『「移民国家日本」と多文化共生論』での稲葉佳子さんのまとめ。
これによると、明治初期(1870年くらい)、百人組の屋敷の地域は陸軍用地となり、「戸山が原」と呼ばれるようになったそうだ。
そういえば、ぼくの通っている早稲田大学戸山キャンパスの側には陸軍の病院があったと聞いたことがあるけど、なるほど、明治以降、一帯はそもそも軍用地だったのですね。
で、そのほかにも、当時流行したコレラに対応するための病院が立ったりしたらしい。特に病院のほうは、百人組の組頭の久世三四郎廣正の屋敷跡に立てられ、その後移転を経て現在の大久保病院のもとになっていった。
ただ、町の大部分を占めていた農村地帯が変化しはじめるのは、それより後、明治40年代になってからだった。新宿〜飯田橋間の甲武鉄道や、新宿〜日比谷の市電、大正3年の山手線新大久保駅の開設など、交通の便がよくなったこともあり、一帯は貸家が立ち並ぶ郊外住宅地となっていった。
正直、軍用地といわれてもあまりピンとこないけれど、このあたりのくだりはなんとなく今の大久保からイメージしやすい感じがする。
というより、現にぼくも、大久保地区の貸家の住人なのだ。
……時々ぼくは、東京のど真ん中の貸家でぽつねんと暮らす自分が、無性に寂しく思えることがある。職安通りの夕暮れを見ながら、そのまま溶けてしまいたくなることも。
近代化のはしりである当時、宅地として発展しはじめた大久保に移り住んだひとたちは、いったいどんな思いで、夕暮れを眺めていたのだろうか。