東京オリンピック Olympic games in Tokyo and the Town of Ookubo
前回書いたように、大久保は歌舞伎町のベッドタウンとして発展してきた。
けれどいま、大久保・新大久保と聞いて真っ先に浮かぶイメージは、韓流の街ということだ。日曜日には、たくさんの観光客が大久保通りを行きかう。どのように大久保は、韓流の街になっていったのだろう。
先日から引いている稲葉佳子さんによれば、戦後すぐから大久保には、廃品回収などを営む在日朝鮮人の集落があったそうだ。
また、現在も大久保にあるロッテの工場と本社の創業者が朝鮮人だったことや、歌舞伎町で事業を展開していた台湾系華僑の存在もあって、大久保はもう60年以上前から朝鮮や台湾の人々が住む地域だったのだ。
ところで、現在はソチオリンピック真っ盛り。連日ウィンタースポーツがテレビ放送されている。
そして興味深いことに、上記のような大久保の状況に一石を投じたのもまた、オリンピックだった。
戦後、大久保から新宿にかけて朝鮮人のバラック群があったのが、1964年の東京オリンピックのため区画整理される一方で、インフラ整備の特需に合わせて地方から押し寄せた労働者たちが大久保地域に流入した。
このときに公共職業安定所が作られたのが現在の職安通りの由来だ。
新宿職安や高田馬場の労働出張所にも出やすいこの地域は、食堂や飲み屋や銭湯が並ぶ労働者の街、もっといえばドヤ街となっていった。
現在、ドヤ街といえば東京の山谷、横浜の寿町、大阪の釜ヶ崎が日本三大ドヤ街といわれる。
けれど、大久保しかり、日雇い労働者の人びとは本当はもっと様々なところで生活していたし、その働きによって街は作りあげられてきた。
都知事選も終わり、2020年には東京オリンピックをやるそうだけど、街はどのように変化していくのだろうか。
インフラを作ろうにも場所がないし、そもそも特需なんて一瞬のこと。
スポーツ観戦は楽しいけれど、そのための街の変化で誰かが取り残されたり、のけ者にされたりしないでほしい。
ぼくはオリンピックに、それを願っている。
写真は、雪の大久保通り。お店のひとが、雪かきをしてくれている。
こういう日常の小さな努力で、街は動いているのだということ。